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前回の記事では、「なぜ写真家はFediverseを無視できないのか」というテーマについて書いた。

写真を撮ることは、昔からほとんど変わっていない。変わったのは、写真を残す場所だった。

今回は、その「場所」について考えてみたい。写真は、どこに残すのが正解なんだろう。#



インターネットという海私はよく、インターネットを一つの大きな海に例えることがある。

その海には、たくさんの島が浮かんでいる。

Instagramという島。

Xという島。

Threadsという島。

MastodonやPixelfedという島。

そして、まだ私たちが知らない小さな島も世界中に存在している。

私たちは毎日、そのどこかの島で写真を見て、人と出会い、写真を発表している。

島ごとに文化があり、写真の見られ方も少しずつ違う。

だから、同じ一枚の写真でも、島が変われば受け取られ方も変わる。

私自身、多くの写真家と出会えたのもSNSのおかげだった。#



でも、海は少し狭くなった。ここで、一つ疑問が浮かぶ。

インターネットは一つの海なのに、なぜ私たちは一つの島だけで暮らすことが当たり前になったんだろう。

隣の島には、素晴らしい写真家がいるかもしれない。

でも、その存在を知る機会は意外と少ない。

別の島へ移ろうとすると、それまで築いてきた人とのつながりを失ってしまうこともある。

だから、多くの人は同じ島に住み続ける。

気がつけば、その島の価値観だけが世界のすべてのように感じてしまう。

でも、本当にそうなんだろうか。

海は、本当はもっと広かったはずだ。#



私自身が気づいたこと10年ほど前、私は初めてポートフォリオサイトを作った。当時の目的は、とてもシンプルだった。

自分が何者なのかを伝えるため。ネット上の名刺のような存在だった。

でも今振り返ると、本当の理由は少し違っていた気がする。

映像作品を多く投稿していた時期、写真展でこんな声をかけられたことがあった。

「映像をやっている人ですよね。」

もちろん嬉しかった。でも、どこか違和感もあった。

私の中では、ずっと写真が活動の中心だったからだ。その時、あることに気づいた。

**人は、SNSで見た一面を、その人自身だと思ってしまう。**

写真を多く投稿すれば「写真家」。

映像を多く投稿すれば「映像の人」。

でも、その印象は、自分が意図して作ったものとは限らない。

そして、これは私だけの話ではないと思う。

クリエイターが普段とは違う表現に挑戦すると、それまで見てくれていた人には届きにくくなることがある。

それはアルゴリズムの影響かもしれない。

あるいは、見る人が無意識のうちに「その人らしさ」を求めているからかもしれない。

SNSは、一つの表現を育てることは得意だ。

でも、新しい挑戦をゆっくり育てていくことは、少し苦手なのかもしれない。

私自身も、それを何度か経験してきた。

SNSへ写真を投稿し続けるうちに、アルゴリズムや見る人の記憶の中で、「自分は何者なのか」が少しずつ形作られていく。

それだけSNSが世界に与える影響は大きいということなんだろう。

**私は、「自分が何者か」を決める場所を、SNSだけに委ねたくない。**

だから私は、SNSとは別に、自分の場所を持つ意味があると思うようになった。

ポートフォリオサイトやブログは、ただ写真を並べるための場所ではない。

SNSの流れから少し距離を置いて、

**「私はどういう人でいたいのか」**

を、自分の言葉で静かに伝えられる場所でもある。#



島と島の間に橋を架ける前回の記事でも少し触れたけれど、私がFediverseに惹かれた理由は、新しいSNSだったからではない。

私がおもしろいと思ったのは、

**「島と島をつなぐ」**

という考え方だった。

橋があれば、Mastodonにいる人がPixelfedで公開された写真と出会うこともできる。

違う島にいる写真家と言葉を交わすこともできる。

そして、もし今いる島を離れることになっても、それまで築いてきた人とのつながりを保ったまま、新しい場所で活動を続けられる。

私は技術そのものよりも、その考え方に惹かれた。

インターネットを、もう一度一つの海として考えようとする姿勢に。

**島を増やしたいわけじゃない。**

**海を取り戻したいだけなんだ。**#



写真は、一つの場所だけで生きていくものなんだろうか。考えてみると、写真家は昔から一つの場所だけで活動してきたわけではない。

写真展。

写真集。

雑誌。

ZINE。

そしてSNS。

どれも役割が違う。

写真展には空間がある。

写真集には時間がある。

SNSには出会いがある。

だから私は、一つだけを選ぶものではないと思っている。写真には、一つ以上の居場所があっていい。

インターネットも、きっと同じなんだ。#



これからも問い続けるためにSNSをやめたいわけじゃない。

写真展や写真集の代わりを作りたいわけでもない。

私はただ、**「自分の場所」**が欲しかった。

10年前、ポートフォリオサイトは、自分が何者なのかを伝える場所だった。

でも今は少し違う。

私が残したいのは、

**「自分が何者か」ではなく、**

**「私はどういう人でいたいのか」**

なのかもしれない。

だから、この場所も完成することはない。

写真を撮り、書き、そして、**疑問をやめない。**

**Dystronixは、そんな場所として育てていきたい。**##



次回一つ、自分の中に残っている疑問がある。

「自分の場所」を持つことは大切だとして、その場所はどうやって作ればいいんだろう。

なぜ私はWordPressを選び、Fediverseへつなげたのか。

その話は、次の記事で書いてみようと思う。

> 本記事に掲載している写真は、すべて omi kim が撮影したものです。

著者について

**omi kim**

大阪を拠点に活動するストリートフォトグラファー。
写真・Fediverse・個人Webについて発信しています。

[Website →](https://omikim.jp )